ここはどこ私は誰?

2022.08.22

自分に「名前」というものが無かったら、僕はどうなってしまうんだろうか。

誰かに呼ばれる時も「おい」とか「そこの奴」と言われるだけ。識別番号くらいはあるかもしれないが、それも組織が変われば無くなるものだし、コンピューターのファイル名のように勝手な都合で呼び名はどんどん変えられていく。

そして自分すら、自分の名前を呼ぶことはできない。

当然だ。自分で自分に「Bob」とか名前をつけることはできるが、他人からその名前で呼ばれていない以上、その名前は自分にとってもただの文字列にしか響かない。

自分すらも、自分が何者であるか分からないのだ。

それは、結構怖いことなんじゃなかろうか。


大学に入って、僕はよく「うーん、なんだかなぁ」と思うようになった。

大学はいい所に行かせてもらっているのに。

成績だって良いのに。

平和で幸せな生活を送っているはずなのに。

世間で言うところの幸せな生活と、そこから僕が得ている幸福量の間にすれ違いがあるというか。なんかこう、違うのだ。不幸ではない状態を幸せと言っているだけであって、実際は少し温かい中華そばをずっとすすっているような得も言われぬ「これじゃない感(゜-゜)」があるのだ。

で、たぶんだけどその「これじゃない感」の正体は割とはっきりしてて。


それが「私は誰?」ってことなんじゃないかと思っている。


高校までは、こんなことを考える必要はなかった。

なぜなら、自分が特別であると周りからもてはやされて来たからだ。

成績が良い奴というのは、高校までは人生幸せだ。小学校ではまぁ、かけっこ速い方が強いんだが、中学になると勉強ができるという能力が異常に高く評価され始める。勉強ができる奴としてさんざん鼻を伸ばして名門校に入ると、次に待ち受けるのは名門校での没個性かと思いきや、「俺は名門校だぜ」という形で他の学校と比較しての自己陶酔が始まる。いくら部活で黒歴史の結果を残そうとも「ま、俺結局名門校だから」という言葉で自尊心を保っているのだ。

なぜこれが成り立つのかというと、たぶん「勉強できる奴すごい」ってイメージをみんな持ってるからじゃないじゃろか。

学生は1日の大半勉強に費やしてるからね。そこで勝てるということは、やっぱりイケメンとか話が上手いとかと同程度のレベルの強さがそこにあるように見えるんだろう。

「よっしゃぁぁぁ! 大学受験も無双したらぁ!」

こうしてそのまま意気揚々と大学受験を突破し、とうとう「名門大学」という学歴人生の最終到達地点へとたどり着く。


ふぅ。

さて。


「じゃ、勉強すっか!」

これ(↑)が、大学生活をダメにしてしまうことを、当然僕は知らないわけである。


気付いたのはたぶん、大学2年生になった頃だろうか。

思ったのである。

「あれ? なんか皆あんまり褒めてくれないな?」

そう、勉強していくら良い成績をとっても、あんまり褒められないのだ。大学ではクラスも無いし、教授との関わりもそう深くはない。それに何より大学では、「勉強できる奴すごい」という空気がかなり薄いのだ。どちらかと言うと、勉強できる奴に張られるレッテルは「くそ真面目」になる。

大学で凄いと呼ばれる奴は「株でめっちゃ儲けてる奴」とか「女遊びしまくってる奴」とか「プロで漫画描いてる奴」とか、このあたりになってくるのではないか。部活ですら、多少の結果を残した所で「すごい奴」にはならないような気がする。(ま、このあたりは「大学生の平均的なイメージ」の話なので曖昧だし、どのコミュニティに所属しているかによってもかなり変わる。ボッチだとインターネットがコミュニティになるので、「プロで漫画描いてる奴」とかがすごく見えてくるわけです)

圧倒的に、周りからの評価基準が変わるのだ。

それに、1年くらいかけてやっと気付くわけである。


「おんや?」


じゃあ漫画とか描いてみるかとなるわけだが、勉強ができるから漫画が描けるなどということはあり得ないのであって、あえなく撃沈。本たくさん読んでるし、小説なら行ける! となるが、それも同じく。おーし、じゃあイラストだぁぁ…………以下、省略。

くそぅ……、なんで無理なんだよ……。

って。

そらお前、今まで勉強しかしてこなかったからに決まってるだろ😄。

逆に言えば、お前は今まで勉強しかしてこなかったからこそ、今そこにいるんだ。親からの何千万という教育投資と10年近くにわたる継続した勉強があったからこそ、お前は学歴の世界ではまぁまぁ勝者になることができた。決して、お前が「なんでもできる天才だから」ではない。

――――と、ここまでを自覚するのにまた約2年。

時は非情。早くも就活だ。

就活という化け物が、両手で僕の顔をグシャッと鷲掴みにしてきて強引に「こっち見ろよ」である。いやだよー、見たくないよー。そんなこと言いつつ、親に急かされ教授に急かされ、見せられるそれは「現実」。まぁ、学歴あるからとなめてかかって「学生時代頑張ったこと」について何も言えなくなる自分。そして、お祈りと絶望。何とかつないだその縄の先も、妥協の産物でしかない。

「特別だった自分」は、既にどこか遠くに行っている。

それを僕は、今でもずっと心のどこかで探しているのだろう。

だから、生活が幸せでもダメなのだ。

「おい! もっと俺を見てくれよ!」

いやぁ、むなしいぜ。


時は最近。

やっと僕は、自分の立ち位置を理解した気がする。

つまり、「僕はもう、何者でもない」ということだ。

与えられたことをくそ真面目にこなしているだけで評価されるフェーズは終わった。これからは、自分で動いて、自分で自分を作っていかなければならない。自分にしかできないことを、自分で生み出して、自分の血肉としていくのだ。それが、インターネットという自由な空間にさらされた自分にとって、唯一存在意義を見つけることができる方法なのだと思う。

そのための行動も、一応してきたつもりだし。


勉強できるだけでは没個性だから、プログラミングをできるようになった。

プログラミングと勉強できるだけでは没個性だから、アニメ会社に入ろうと思った。

プログラミングと勉強とアニメ会社だけでは没個性だから、日本一周をした。

それだけでは足りないから、アニメを作った。


うーん、まだ全然ダメなんだよなぁ。

勉強という空間から離れた「アニメ」という空間において、僕はあまりにも下層すぎる。作ったアニメもゴミ同然だったし、どうやら才能が無いというのは間違いないらしい。それはまぁ、認めるしかないよ……畜生(´;ω;`)。

それでもアニメを離れる気は無い。問題は、どうやって「アニメ」空間の中での「自分」を見つけるかだ。「ただアニメが下手な奴」という個性はあまりに生きづらい。それでは続かないだろう。かといって、「誰にも負けないくらい絵の練習をして、良いアニメを作れるよう頑張る」というのも、あまりしっくり来ない。絵の習得はめちゃくちゃ時間がかかるし、絵上手い人は巷にあふれてるし、最近はAIも絵を描けるようになっているし。

下っ端でいる時ほど、「私は誰?」という質問には胸をはって答えられるようにしたい。

そうでないと、近いうちに死んでしまう未来が見える。

逆巻くアイデンティティクライシス。

果たして生き残れるか!?

to be continued...