書いていないと死んでしまう

2022.05.12

誰もが今、ものづくりをしている。

Twitterを開けば、流行アニメの二次創作からマイナーなコミュニティでのオリキャラの描き合いまで十人十色。

地元のお絵かき教室を覗けば、おじいちゃんおばあちゃんの絵はがきが四方八方。

気づけば友達も小説を書いているという青天霹靂。

1億総創作時代である。

とは言ったものの、その中の多くの人は「褒められ」や「憧れ」が原動力だったりする。

創ること自体に目的を見出している人は、おそらく少ないだろう。

しかしやはり、比喩で言う所の「呼吸をするように創る」人というのは、やはり存在するようだ。


とあるその友人は、小さい頃からスターウォーズなどの洋画やガンダムを見て育ったという。

色々な作品を見て憧れを抱き、中学生から小説を書き始めた。

そして今では、唯一無二のIPを作ることを夢見て、大学生活の傍ら創作活動に励んでいる。

今日、僕は彼がこういうのを聞いて耳を疑った。

「書いてないと死んでしまうんで」

……は? 生物学的に考えて死ぬわけないだろ?

――という感じで耳を疑ったのではない。

そんな内的な動機だけで書ける人なんて、正直存在していないと思っていたのだ。

僕は今まで、創作というのは自分のアイデンティティを確率するためにあるものだと思っていた。他の人とは違う、自分はこれだけ唯一無二の人間なんだとうい証明のために、創作をするものだと思っていた。だから、作ったものを他人に見せて「すごい!」「うまい!」と行ってもらう、その行為にこそ本当の意味があるのだと思っていた。自分のために描いているという人も、それは建前で結局は他人からの褒められを目標にして描いているのだとばかり考えていた。

だからこそ、彼が真剣に「死んでしまうんで」と言っていたのには、素直に驚いてしまった。

まじかよと思ったし、若干嫉妬もした。

だって僕なんて、頑張って環境を整えてお尻を叩いてもらってやっと、創作に踏み切れるような人間だ。一人きりの世界でもし野放しにされたなら、アーカイブに残ったYouTubeと過去のゲームで時間を潰しながら、時々ビルの屋上で日向ボッコでもするくらいだろう。誰かに見せない前提で作品を作るなど、絶対にあり得ない。

でも彼は、限りなく自分のために書いているように見えた。

読む人がいるといないとに関わらず、小説を書くという行為自体に落ち着きを覚えるのだと言っていた。

それがどんなに羨ましいことか。

創作の神は、彼に微笑むのだろう。

他人からの褒められのために創るのと、創作という行為そのものに没頭すること。創作を自己肯定感底上げのツールとして使うのか、それともその行為自体に楽しさを見出すのか。両者は遠いようでいて近いが、やはり違うものだろう。


クリエイターの赤子の多くは、おそらく褒められから入る。

憧れの人や作品があって、それが世間やオタクコミュニティで流行していて、僕もそうやって褒められんとして創作の門を叩く。

最初は思い通りのものが作れず、苦しい日々が続く。

しかしある日を境に、急に自分の作る物がいいと思えるようになる。

すると、作ること自体が面白くなっていく。

誰にも見せる必要なんてない。

何かを作るという行為そのものが、風呂よりも食事よりも大事になる。

ずっと創っていたいと、そう思うようになる。

しかしある時、それを他人と比較される機会が訪れる。すると、自分の創る物は他の人には理解されないんだということが分かる。愛を込め夢中で作ったものを足蹴にされる痛みは、二度と作れない深い傷にもなりうるのだ。そうやって、クリエイターの赤子は淘汰されていく。だから、プロを目指している人に「好きだから」と答える人は異様に少ない気がする。

でも、自分のために創ることは、社会的成功を目標にするとしてもやっぱりとても大事だ。

大事に、していかなければならない。

それをしないと死んでしまうという感覚を、他の人に傷つけられないよう大切にとっておかなければならない。

いつしか親に褒めてもらったその絵は、大切にとっておかねばらない。

そして、いざという時はそれを思い出すのだ。

それでこそ、作品は真に自分の作品であれるような気もする。